無料電子書籍、AI音声、オーディオブック:武者小路実篤著「お目出たき人」

オーディオブック:武者小路実篤著「お目出たき人」
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オーディオブックを聴く:武者小路実篤著「お目出たき人」
お目出たき人
一
一月二十九日の朝、丸善に行っていろいろな本を探した末、ムンチという人の書いた『文明と教育』という本を買って丸善を出た。出て右に曲がって少し来て四つ角の所へ来た時、右に折れようか、まっすぐ行こうかと思いながらちょっと右の道を見る。二三十間先に美しい華やかな着物を着た若い二人の女が立ち止まって、誰か待っているようだった。自分の足は右に向いた。その時自分はその女を芸者だろうと思った。おしろいを濃く塗った丸い顔した、華やかな着物を着ている女を見ると自分は芸者に決めてしまう。
二人とも美しくはなかった。しかし醜い女でもなかった。肉づきの良いちょっと愛嬌のある顔をしていた。特に一人の方は可愛いところがあった。
自分は二人のいる所を過ぎる時にちょっと何気なくそっちを見た。そうしてその時心の中で言った。
自分は女に飢えている。
誠に自分は女に飢えている。残念ながら美しい女、若い女に飢えている。七年前に自分の十九歳の時恋していた月子さんが故郷に帰った以後、若い美しい女と話した事すらない自分は、女に飢えている。
自分は早足で堀にぶつかって電車道について左に折れて電車に乗らずに日比谷に行き、日比谷公園を抜けて自宅に向かった。
日比谷を抜ける時、若い夫婦の楽しそうに話しているのにあった。自分は心ひそかに彼らの幸福を祝するよりも羨ましく思った。羨ましく思うよりも呪った。その気持ちは貧者が富者に対する気持ちと同じではないかと思った。淋しい自分の心の調べの華やかな調子で乱される時に、その乱すものを呪わないではいられない。彼らは自分に自分の淋しさを目のあたりに知らせる。痛切に感じさせる。自分の失恋の旧傷をいためる。
自分は彼らを祝しようと思う、しかし目の前に見る時やむとすると呪いたくなる。
自分は女に飢えているのだ。
自分は鶴のことを考えながら自宅に帰った。
鶴は自宅の近所に住んでいた美しい優しい可憐な女である。自分は鶴と話したことはない。月子さんがまだ東京にいた時分から自分は鶴を知っていた。その時分は勿論恋してはいなかったが可愛い子供だと思っていた。会う度にいゝ感じがして、いつでも会ったしばらくは鶴のことを思っていた。しかしすぐ忘れてしまっていた。ところが月子さんが故郷に帰ってから三年目、失恋の苦が薄らぐと共に鶴が益々可憐に見え、可愛らしく見え、鶴に会わない時は淋しくなった。
自分はその時分から鶴と夫婦になりたいと思うようになった。鶴ほど自分の妻に向く人はないように思われて来た。自分の個性を曲げずに鶴とならば夫婦になれるように思われて来た。かくて自分の憧れている理想の妻として鶴は自分の目に映るようになった。
女に飢えている自分はここに
自分が鶴と夫婦になりたいと思った時にまず心配したのは近所の人に冷笑されることだった。話の種にされることであった。歩く度に後ろ指をさされることであった。
しかし自分はそんなことを考慮して自分と鶴の幸福を捨てるのは馬鹿げていると思った。意気地のない話だと思った。自分は断じて近所の人を恐れないで見せる。自分は近所の人、口さがなき俥屋の女房、のらくらしている書生、出入りの八百屋、いたずら小僧、そういった人に後指をさされたり、悪口言われたり、嘲笑されたりすることを平然として甘受して見せようと思った。
次に自分は母を恐れた。母は世間を恐れる人だ。近所の物笑いになることは母には耐えがたいことだ。しかし自分を愛する母は自分の決心一つでどうにでもなると思った。
母さえ味方にすれば世間を馬鹿にしている父は承知するだろうと思った。
かくて自分は鶴を妻にするために出来るだけ骨折ろうと思った。翌年の暮れに母を承知させ、その翌年の春に父を承知させ。その夏、間に人を立てて鶴の家(いえ)に求婚してもらうことになった。
自分はそこまで思ったより容易に事が運んだので、十が九までうまくゆくと思っていた。その内には自分の家が彼女の家よりもすべての点に於て優っているという自覚も手伝っていた。そうして自分はうまくゆく暁を考えて、嬉し夢と、甘き夢と、くすぐったい夢を見ていた。
初めて会う時のこと、お互いに感じていたことを打ち明ける時のこと、最初の接吻の時のこと……そんなことさえ空想することがあった。友のする風評、近所の人の風評も想像して見た。父や母や兄や姉や姪に対する鶴の態度も想像して見た。すべての想像は華やかな、明るい、甘い、そうしてまぶしい気まりの悪いものであった。
間に立った人は七月下旬に鶴の家に行って下さった。そうして無愛想に「何しろまだ若いのですから、今からそんな話にのりたくありません」ことわられてしまった。こちらの名を言わなかったのが、
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